おーっとぉ?「タイトルを真似するな!」というツッコミは、今ばかりは正しくないぜ?(挨拶)
と、いうわけで、フジカワです。
僕には姉がいるのですが、全き健常者であるのはいいとしても、障碍についてまるで無理解というか、偏見にまみれた持論を展開されては、いかに身内ではあれどs(以下検閲削除)
今回の記事は、「欲求と義務の狭間!」とかいった話です。
目が覚める
さて。この記事を書こうと思ったのは、別の方の記事を読んだことでした。
「文章表現で幸せになる」
https://happymagazine.net/20230706-45467.html
いやぁ……自分が妙に恥ずかしくなりました。
そうなんですよ。
「書く」ということは、まず本人の幸福であるべきなのです。
(上記の記事を書かれた)小崎さんの仰る通り、ささやかなことでもいい。
日常の些末なことに、きらめきを見つけられる目。それが大事なんですよ。
「ものを書くこと」の本質がある。
ちょっとね、個人的には目を覚まされたような気がしました。
ぼんやりとした危機感
書くこと、は、確かに幸福を得る手段ではあります。
小崎さんの記事を拝読して、さらに「ああ」と思ったことがあります。
むしろ、危機感すら覚えた。
それは、「やりたい」が、いつしか「ねばならない」に変わっているのでは? という疑念。
自分を癒すための手段が、義務、ないしは承認欲求に取って代わっている。
……我ながら危ないな、と思いました。
初心忘るべからず
表現とは、まず癒したらねばならない。
個人的には、疑いようのない事実です。
ただ、僕みたいに27年間も書いてて、かつ、そのうちの16年間が下手にプロだったりすると、妙ぉーに(ある側面において)「卑屈」になるんですよね。
要するに、「ウケを狙うスケベ心」が出てしまう。
文字ってのは、すごく正直です。
書き手の心を、鏡のように映します。
下心も、品性も、性格も、何もかも、出るんですよ。
「そんなもん、知らねえよ!」と、うそぶいている、他ならぬ僕自身が、実のところ、誰よりも卑屈になっているんじゃあないか?
初心忘るべからず、という言葉がございますが、それも意外と難しいもんです。
もっとも、僕の場合に限っては、その「初心」こそがギトギトに脂ぎっていて、この歳でやっと「多少は」洗われたかな? という実感もあるんですけども。
話を戻して
「表現すること」は、幸せになる手段たり得ます。
それは間違いがないことです。
理由としては、結構明確。
「気持ち(わだかまり)を吐き出す(アウトプットする)」のって、平たく言えば、「内面の整理」ですからね。
もう一度述べますが、文字は正直です。
書き手の全ての感情が出ます。
イコール、「辛さ」もしかり、なんですよね。
嫌々書いたものは、「そう」としか読めない。
変な義務感を持つと、その「力み」すら出る。
「やらねばならない」よりも、まず「やりたい」。
そこをはき違えると、ひどい目に遭う。
もちろん、プロになったなら「やらねばならない」のではありますが、そこに「好き」がないと、つまらないものしかできないと断言できます。
これはアレだ。分かりやすく言えば、比類なき結果を出し続けている、エンゼルスの大谷翔平選手が、そもそも野球が嫌いであるか? ってことですよ。
むしろ、オオタニ=サンは、かつて現地で評されたことがあるようですが、「リトルリーガーのような純粋さ、無邪気さ」を持ったまま、メジャーリーガーになったような人です。
好きこそものの上手なれ、とは、よく言ったもの。
とは言え、僕は自分に対して、「文章が巧い」とは思わないようにしてはいるのですが。
なんせ、思い上がりは毒でしかないですからね。
これは逆に、「謙遜は美徳ではあれど、過ぎたる卑屈もまた罪」でもある。
このあたりの塩梅が、いつも難しいなあ、とは思っています。
大切にしたい感性
小崎さんの記事内から表現を引用させていただきますが、
「朝食のトーストの焼き加減が好みに焼けた。」
こういう幸せを見つけられる感性を、僕も大事にしたいと、しみじみ思いました。
極端な話でもないかとは思いますが、表現者に必要な感受性の全てが詰まっている。
そのことを教えてくれた方が、同じ空間にいらっしゃることが、表現者の端くれとして、何よりも嬉しい。そんな梅雨の終盤。
んじゃまた。
文章:フジカワ